10月のもとで

モスクワから

経済

会社には三つの主要部署がある。そこにいると自分に残るものは、

一つ目の部署は「人脈」、二つ目は「知識」、三つ目は「思い出」。

 

思い出はあっても、経済にかんしてはまったくわからない。資本論とか、去年、ピケティは読んだけれど。意匠は大事なので。

 

経済はわからないが、生活は大事なので、ルーブル相場は注意を払う。そのまま生活の質に直結するから。買い物するときに、「掛ける2」か「掛ける1・5」かは、精神衛生が全然ちがう。去年秋ごろは、1ルーブル=3・2円だったが、いまは1・7円。つまり、このスパンでみると、買い物は2倍近くお得になってる。

 

なので、ルーブルの先行きは気になる。輸出のうち石油・ガスが大半を占めるこの国は、原油価格とルーブル価格が完全に一致している。簡単にいえば、原油価格が上がれば、ルーブル高になり、原油が下がればルーブル安になる。

 

そして、したがって、よって、やはり、いわずもがな、畢竟、論を俟たず、ミクロ的に、つまりエゴ的に、それを上品にいうとアダム・スミスが想定する合理的人間としては――この国の経済の先行きを応援する気は毛ほどもなくなる。だって、原油が上がり、ロシア経済が元気になれば、ルーブル高になり、わたしの生活の質が落ちるので。深い部分で、この考え方は誤っている気はするのだが、目先の吝嗇はなおらない。

 

「畢竟」とか「吝嗇」とか書いてあると、書いた奴はおじいちゃんだなあ、とわたしは思ってしまう。自分がそうなりつつある。